紙の媒体とは

紙の本と新聞との差異とは何であろうか。

速報性においては新聞が強いのは自明なことだが、速報性ならネットやテレビの方がより強い。では、論証性や実証性に強いのか、いや、それなら紙の本が圧倒的な力を持つ。

じゃあ、新聞はどこに拠り所があるのだろうか。どこにもないし、中途半端な存在にすぎないということがまさしく、答えなのである。

ただ、本で書く場合、数年の期間、いや、それ以上の期間がかかる。

短期間なら新聞で詳細な調査報道が力をきかせるかもしれない。

スクープ合戦を繰り広げ、脚で稼ぐことが何よりということが何よりも無差異なのであり、脚で稼ぐことは地道な調査にかけられるべきものであり、他社を出し抜くという凡庸とは正反対の愚鈍さが産業革命の全盛期であった19世紀から持続しているということを認識することがまさしく重要であるということが忘れ去られている。

他が何をしていようと事実や物事を真っ直ぐに伝えればいいのであり、それこそ凡庸さを極めればいいことであるのだが、凡庸さとは極めることがきわめて難しいという皮肉な現実を誰も理解していない。

倫理と政経そして国語

早稲田の政経政経受験を廃止したらしい。東大も慶応も政経受験が不可能というのは周知で、倫理に至っては入試での選択は政経以上に難しく、こういうのがまさしく改革すべき点だ。

ヘーゲルマルクスを見れば明らかなように、歴史と哲学は同時なのであり、とりわけ近現代とは経済拡張と文化侵略のセットなのだから、余計に倫理と政経は必要なのだ。

 

倫理とか言わずに哲学でいいのだ。ただ、これは国語にも関わる。国語は与えられた文章の骨格を見つけることを読解としているが、これは本当に間違っている。文章において概念と文体は本質的に分離できない。ルイス・キャロルやアントナン・アルトーの作品において「文体と内容は切っても切れないものだ、思考の流れを体現するものだ」と主張したのは、ドゥルーズ の『意味の論理学』であった。論理学は構造を抽出し、演算子を用いて客観性を徹底させるわけだが、こういったことを批判しているわけである。

演算子(=構造、文体)と変数(=内容)という概念が広く浸透してしまっているのが、現在の日本の国語教育に過ぎないということが問題だ。論理的な読みとか文学的な読みとかはそもそも問題としてそもそも起こっていないし、何もかもがちぐはぐだ。

 

明治時代

小学生の頃、この時代がとても好きだった。しかし、私が成長するにつれ、そして、世間で龍馬ブームが起こっていくにつれ、明治というものに非常に懐疑的な気持ちを抱くようになった。

そんな私でも、明治期の本でお気に入りがある。それは、小学生の頃に見たNHKの教育番組で、部分的にそしてほんの少し取り上げられた、中江兆民の『三酔人経綸問答』というものだ。

 

中江兆民という人は、「土佐派の裏切り」にキレるとか、女好きとか、まぁ、結構な奇人なわけだが、上のテクストはあまりに常人のものである。

中身を要約すれば、右派、左派、中道の対立で、軍事強硬、平和外交、両方のミックスと言い換えれば良い。

ごくごく普通の内容だが、「今と何も変わってないじゃん」という一点がすごく怖いと同時に、面白いのだ。

 

人々が明治に憧れを持ってしまうのは、それは今が不況の持続で、何もない中で希望を見出そうとするからであるのは自明である。

ただ、兆民のこれを読む限り、明治から今の間に、あんな胸糞悪い爆弾を無数にあるいは2個落とされても、何も変わっていないということがはっきりわかるのだ。もちろん、兆民は一次大戦も二次大戦も知らずに亡くなっているのだが、彼の筆のどこかに、「今もそして未来も何も変わんないからさ...」という息切れを感じるのだ。

 

明治に、今との差異を見出すことによる満足ではなく、明治に、今との無差異を暴露することによる不満が必要なのであり、そういった点で歴史マニアには哲学がない。

フィクションとノンフィクション

芥川賞の選考で『美しい顔』の盗作問題が起こった時、盗作の「盗」という概念が一人歩きをして問題になってしまった。選考委員の考えもさほど本質的な議論とも思えない。

元来、私は小説よりも哲学を愛好しているが故に、フィクションには口を出したくないのだが、ここばかりは口にしなくてはならない。

 

まず、オリジナリティの点から議論をするのは大変よろしくない。反証はシェークスピアやペローなのであって、彼らの作品は民間伝承や騎士道物語のパクリとも言われかねないほどだ。では、どのような論点が重要なのか。それは事実の重さをどれくらい認識するかにかかっている。

 

事実の重さを真摯に受け止めて作られた作品として、代表としてはアラン・レネの『夜と霧』がある。これは記録用のカラーフィルムや写真のみを用いて、ナレーションをつけたドキュメンタリー映画である。

まぁ、ここで問題なのは彼がなぜ記録用や記事用の写真にこだわり、物語を書かなかったのかということに尽きる。

答えをいうならば、むしろ事実が重すぎて何事も創造できないということだ。

災害や戦争、ホロコーストたくさんの物語が創造されたが、問題は色々ある。

そういったことをある哲学者が的確に表現している。

 

アウシュヴィッツ以降、詩を読むのは野蛮である。」

 

テオドール・アドルノ

アニメへの違和感

アニメは、文学や演劇や映画を、皆が思っているほどには超越出来ていないと私は考えている。『この世界の片隅に』はその点素晴らしく、実写の戦争映画をある種、超越した出来栄えであった。

ガンダムにしろニュータイプがやはり頂点に立つというのがいかんせん不満である。シャアだ、ハマーンだ、出したところで革命はうまくいかないんだという趣旨を完全には提示出来ていない。

必ず彼らの打倒者は、アムロジュドーといったニュータイプなのであり、こういう「超人vs超人」の二項対立あるいは弁証法的な対立ははっきり言って、古い。

友人から勧めで

友人あるいは先輩がブログをやっていることを、しばしば耳にしており、自分もブログをやってみようということになりました。映画評や読書評をつらつらと書き続けることになりますかね。