倫理と政経そして国語

早稲田の政経政経受験を廃止したらしい。東大も慶応も政経受験が不可能というのは周知で、倫理に至っては入試での選択は政経以上に難しく、こういうのがまさしく改革すべき点だ。

ヘーゲルマルクスを見れば明らかなように、歴史と哲学は同時なのであり、とりわけ近現代とは経済拡張と文化侵略のセットなのだから、余計に倫理と政経は必要なのだ。

 

倫理とか言わずに哲学でいいのだ。ただ、これは国語にも関わる。国語は与えられた文章の骨格を見つけることを読解としているが、これは本当に間違っている。文章において概念と文体は本質的に分離できない。ルイス・キャロルやアントナン・アルトーの作品において「文体と内容は切っても切れないものだ、思考の流れを体現するものだ」と主張したのは、ドゥルーズ の『意味の論理学』であった。論理学は構造を抽出し、演算子を用いて客観性を徹底させるわけだが、こういったことを批判しているわけである。

演算子(=構造、文体)と変数(=内容)という概念が広く浸透してしまっているのが、現在の日本の国語教育に過ぎないということが問題だ。論理的な読みとか文学的な読みとかはそもそも問題としてそもそも起こっていないし、何もかもがちぐはぐだ。