フィクションとノンフィクション
芥川賞の選考で『美しい顔』の盗作問題が起こった時、盗作の「盗」という概念が一人歩きをして問題になってしまった。選考委員の考えもさほど本質的な議論とも思えない。
元来、私は小説よりも哲学を愛好しているが故に、フィクションには口を出したくないのだが、ここばかりは口にしなくてはならない。
まず、オリジナリティの点から議論をするのは大変よろしくない。反証はシェークスピアやペローなのであって、彼らの作品は民間伝承や騎士道物語のパクリとも言われかねないほどだ。では、どのような論点が重要なのか。それは事実の重さをどれくらい認識するかにかかっている。
事実の重さを真摯に受け止めて作られた作品として、代表としてはアラン・レネの『夜と霧』がある。これは記録用のカラーフィルムや写真のみを用いて、ナレーションをつけたドキュメンタリー映画である。
まぁ、ここで問題なのは彼がなぜ記録用や記事用の写真にこだわり、物語を書かなかったのかということに尽きる。
答えをいうならば、むしろ事実が重すぎて何事も創造できないということだ。
災害や戦争、ホロコーストたくさんの物語が創造されたが、問題は色々ある。
そういったことをある哲学者が的確に表現している。
「アウシュヴィッツ以降、詩を読むのは野蛮である。」