ジャンルと人材

 「七芸術」すなわち建築、彫刻、絵画、音楽、舞踏、文学そして映画が、芸術の形式の区分として存在していることは確認した。また、これを意識して創作したり、鑑賞したりできないのが問題とも述べた。この問題の背景を知るには、学生演劇に携わる人の類型を見る必要がある。

 

 社会的な見方を考えると「演劇なんかやってんだから、色々知ってんでしょ。それなりに。」みたいな反応があるはずだが、残念ながらこういったことは学生演劇では存在しない。少なくとも私の実体験では。

 面白いことに、楽器を演奏する人や映画を撮っている人の方が遥かに詳しい。もちろん仏文の仲間も。演劇の人間よりも彼らから得るインスピレーションのほうが多かった。

 

 じゃあ、なんでここまで差を感じたかというと、学生演劇に流入する人材が根底的に変わってしまったからだと考えている。

私の主観でしかないが、演劇に流入する人材は下記のような系統に分けられる。

 

1.純粋に演劇やりたいという人あるいは演劇が好きで、戯曲について研究してる人

 

2.映画や文学などジャンル外が専門の人

 

3.アニメが好きで、声優を目指している人

 

4.みんなで「とにかく作りてぇな舞台」という人

 

 ざっとこんな感じだろうか。私感でいえば1はほぼ殲滅、2は壊滅といったところだろう。「これから俺はがんがん知っていくぜ」という動機で演劇を始めた人だって、私が知る限り1人しかいない。でもこれは不思議だ。音楽だったら、クラシックであろうとなんだろうと詳しい奴はいる。これから知的に学ぼうという人だっている。映画だって、絵だってそう。演劇だけがいない。戯曲も読まないし、本も読まない。これが演劇が衰退する要因で尤もなものだろう。

 この文章を書いている私は2のパターンで、我々の仲間も基本的に2だろう。1、2は交流も多い。ミュージシャンが劇音楽を作曲したり、劇作家が小説を書いたりするなどはよくあることだ。

 

 厄介なのは、3をベースに1が混じっているパターンで、高校演劇を経験している人は純粋培養な1というよりも、3から入って1にいくみたいな感じが男女問わず多い。こういう人は原文を読んで研究しようかとか学究肌にはいくことはなく、国内演劇それもアングラよりに目がいくので、こだわりが変に強い。そのためか、1や2の人間が演劇論や一般的な学問書などを会話で取り上げるたびに嫌そうな顔をする。

 そして1と3の掛け合わせと同じく厄介なのは3のパターンに全体性を帯びた、3と4のハイブリッド。3をベースに含む人に関して言うなれば、ハイカルとローカルの区別の消滅は鑑賞上でのことで、創作上では通用しないということが如何せん理解できてないということ。

 ハイカルとローカルで作品の難易度云々があるとかではなく、単にジャンルが違うので創作のアプローチも違うということ。アニメでジロドゥの演劇ができるだろうか、漫画でフロベールを読むことに意味があるのか、是非考えて欲しいものである。

 もちろん演劇サークル内で幅きかせてくるのは1と3のハイブリッドと3と4のハイブリッドだ。そもそも幅をきかせてくる人と楽しく喋れるだろうと1、2の人が本気で話し始めると3だったみたいなことがバレたりする。


 救いなのは圧倒的に4の人が大多数であるということ。彼らは舞台、照明、音響など職人になる傾向がある。頼ることのできる数少ない人々だ。礼儀正しいし、まず優しい。だが、ものは言わないから、幅をきかせる人が演劇を作る上でパワーバランスが強くなっていく。そのためか、脚本、演出、役者は幅きかせる人の独占するところとなり、そういった状況への反発として、私はちょっと脚本や演出をやってみたという感じだ。