星付けについて私が知っている、二、三の事柄

-映画のレビューサイトをレビューしていく-

 そんな趣味が趣味として成立する時代が来ている。Amazonのレビューが幅をきかせるようになってもう久しいが、それに歩調を合わせたように映画レビューも日常のように広まった。

 私自身、他人と映画について話すのが好きであり、ネタバレも全くイライラしないので、レビューサイトで面白そうな感想を探るんだが、これがなかなか厄介だ。ブログのように「こんな読解あるんかい!」という良い驚愕を得たいのにも関わらず、好き嫌いの感想ばかりで、それだけならまだしも「わからないからダメ」みたいな論調が全面に出ている。

 それに拍車をかけるのが「星」だ。星を使った評価は可視化という点でサイトの設計としては抜群だが、これが機能していない。

 ルノワール大いなる幻影」、フェリーニ「道」、カーティス「カサブランカ」。どれも星3の後半だ。どれも映画史に残る名作だ。あと2、300本くらいこういった事例を出せるぞ。もちろん名作だらけだ。書ききれない。

謎はまだまだある。ルノワールで考えると「素晴らしき放浪者」が4.1なのは?もっと上にして「大いなる幻影」は4を超えていい。フェリーニも「道」と「8 1/2」と「アマルコルド」がほぼ同じというのも意味がわからない。「カサブランカ」に関連して、カーティスの戦争映画にプロパガンダ的とか言ってるのも馬鹿だろ。対独プロパガンダじゃないぞ、あれ。

最後にゴダール。「気狂いピエロ」が3.8で「映画史」が軒並み4台だと?過去の名作を3後半つけててわかるのか?しかも第1章が3.8なのも意味がわからない。

 

 ユーザー内も謎。「君の名は」が5で「男と女」が3?意味わかんねぇよ。お前ら女好きじゃないのか...まぁ四ツ谷で「お前誰」とかいう男を、飛騨に行くだけで許す観客だからしょうがないか。セックスで拒否られても、駅に行く勇気を持った男でいたいよ、私は。

ジャンルと人材

 「七芸術」すなわち建築、彫刻、絵画、音楽、舞踏、文学そして映画が、芸術の形式の区分として存在していることは確認した。また、これを意識して創作したり、鑑賞したりできないのが問題とも述べた。この問題の背景を知るには、学生演劇に携わる人の類型を見る必要がある。

 

 社会的な見方を考えると「演劇なんかやってんだから、色々知ってんでしょ。それなりに。」みたいな反応があるはずだが、残念ながらこういったことは学生演劇では存在しない。少なくとも私の実体験では。

 面白いことに、楽器を演奏する人や映画を撮っている人の方が遥かに詳しい。もちろん仏文の仲間も。演劇の人間よりも彼らから得るインスピレーションのほうが多かった。

 

 じゃあ、なんでここまで差を感じたかというと、学生演劇に流入する人材が根底的に変わってしまったからだと考えている。

私の主観でしかないが、演劇に流入する人材は下記のような系統に分けられる。

 

1.純粋に演劇やりたいという人あるいは演劇が好きで、戯曲について研究してる人

 

2.映画や文学などジャンル外が専門の人

 

3.アニメが好きで、声優を目指している人

 

4.みんなで「とにかく作りてぇな舞台」という人

 

 ざっとこんな感じだろうか。私感でいえば1はほぼ殲滅、2は壊滅といったところだろう。「これから俺はがんがん知っていくぜ」という動機で演劇を始めた人だって、私が知る限り1人しかいない。でもこれは不思議だ。音楽だったら、クラシックであろうとなんだろうと詳しい奴はいる。これから知的に学ぼうという人だっている。映画だって、絵だってそう。演劇だけがいない。戯曲も読まないし、本も読まない。これが演劇が衰退する要因で尤もなものだろう。

 この文章を書いている私は2のパターンで、我々の仲間も基本的に2だろう。1、2は交流も多い。ミュージシャンが劇音楽を作曲したり、劇作家が小説を書いたりするなどはよくあることだ。

 

 厄介なのは、3をベースに1が混じっているパターンで、高校演劇を経験している人は純粋培養な1というよりも、3から入って1にいくみたいな感じが男女問わず多い。こういう人は原文を読んで研究しようかとか学究肌にはいくことはなく、国内演劇それもアングラよりに目がいくので、こだわりが変に強い。そのためか、1や2の人間が演劇論や一般的な学問書などを会話で取り上げるたびに嫌そうな顔をする。

 そして1と3の掛け合わせと同じく厄介なのは3のパターンに全体性を帯びた、3と4のハイブリッド。3をベースに含む人に関して言うなれば、ハイカルとローカルの区別の消滅は鑑賞上でのことで、創作上では通用しないということが如何せん理解できてないということ。

 ハイカルとローカルで作品の難易度云々があるとかではなく、単にジャンルが違うので創作のアプローチも違うということ。アニメでジロドゥの演劇ができるだろうか、漫画でフロベールを読むことに意味があるのか、是非考えて欲しいものである。

 もちろん演劇サークル内で幅きかせてくるのは1と3のハイブリッドと3と4のハイブリッドだ。そもそも幅をきかせてくる人と楽しく喋れるだろうと1、2の人が本気で話し始めると3だったみたいなことがバレたりする。


 救いなのは圧倒的に4の人が大多数であるということ。彼らは舞台、照明、音響など職人になる傾向がある。頼ることのできる数少ない人々だ。礼儀正しいし、まず優しい。だが、ものは言わないから、幅をきかせる人が演劇を作る上でパワーバランスが強くなっていく。そのためか、脚本、演出、役者は幅きかせる人の独占するところとなり、そういった状況への反発として、私はちょっと脚本や演出をやってみたという感じだ。

芸術の形式について

 新年を迎えたが、私のいた演劇研究会は相変わらずの状況のようだ。Twitterに流れてくる妙なアニメ関連ツイートへの「いいね!」をみて、そう考えてしまった。

 

 そもそも演劇は芸術の形式の中で、どこに位置付けられるのだろうか。アンドレ・バザン「映画とは何か」の冒頭はその点印象的だ。芸術の形式への言及が行われ、演劇とどう違うのか、今までの芸術形式といかにして異なるのか、しっかり説明している。

 作品を分析したり、自身の創作の立ち位置を知ったりするのにとても大切な観点であるが、実際に芸術の形式といわれて思い浮かばない人が多く、「そんな難しいことはお構いなし」みたいな態度も蔓延していた。

 

 話が少しそれた。本題に戻ろう。芸術の形式の話をすると必ず今では「七芸術」みたいな言い換えをする。構成要素は、建築、彫刻、絵画、音楽、舞踏、文学そして映画の7つだ。演劇はないが、これは舞踏のグループに入れ、文学が一番後ろにあるのも興味深い。映画を「第七芸術」というのも、フランスの評論家のカニュードによる著作がこれを提唱したからに他ならない。バザンの評論の冒頭もこれを意識したのだろう。「映画を芸術形式の一つに数えてみたらどう?」

 

 ここまで芸術の形式について手短に振り返ってきたが、今から問題となるのは、この形式そのものの枠組みが古いとか独善的というような長い問いなのではない。創作したり、鑑賞したりする際に、意識的に思考できない人が多いということが、まさしく本題なのである。

衣裳や舞台がわからない脚本家

 演劇で裏方の長かった私は、ほとんどの場合で脚本と演出の拘りに呆れていた。センスも色彩感覚も乏しく、もっとモノマニアになってくれと思ったものだ。

 役者をやる人間の中には演出とか戯曲ために裏方をやっておこうという人が多いが、裏方固有のセンスを吸収しようという発想に至らない人間もまた多い。

 

 つまり、衣裳であれ、舞台であれ、作業ローテさえ覚えればという不届き者が多いということだ。そうではなくて、本来ならば、どうセンスを裏方として提供していくかが重要なはず。舞台に関していうなら、抽象とか具象とかまず二分法で考えているのが悪い。

 例えば、舞台構造は簡素だが、インテリアに拘るだとか、舞台構造は街だが、物は減らすとか。これに衣裳や音響、照明の思考がパターンとして並ぶと何通りにも変化する。

 

 抽象とか具象云々ではなくて、観客にどういった視覚/聴覚効果を与えるかが重要であって、脚本の再現性よりも舞台や衣裳は何よりも見栄えなのだ。照明や音響だってそうである。

 

 昔の時代の雰囲気にせよ、現代的なものにせよ、「物」を知らなければ何も始まらない。ピッツェリアとリストランテを混同していたら悪い冗談でしかないし、戦間期のマフィアが現代のスーツを着てたらチンピラにしか見えないということだ。

 

 残念ながら、どれも本当の話。

 

普通に発想する

 私は大学時代、演劇サークルに入っていたわけだが、この時にふと思ったことがある。それはオリジナリティーの病というものである。

 

 演劇は、学生が思っているほど、新しいことが可能な分野ではなく、ある種、音楽でいうところのクラシックのような趣が強い。

 ただ、学生演劇で脚本やりたいという人間に限って、過去へのリスペクトが足りていない。

 

 学生たちの現状を考えるに、本を色々読むわけでもなく、歴史に学ぶのでもなく、安易な前衛あるいはコントテイストの方向へ行ってしまう。メンヘラチックだったり、お笑いであったり。

 

 どうしてかわからないが、演劇の中で、自分の痕跡をつけたいのか、それとも自身のエッセンスを出すのに必死なのか。はたまた、過去をなぞることに若気なりの反発心を持つのか。いずれにせよ、そういう勘違いが演劇をおかしくさせてしまう。

 

 そうではなくて、たくさん財宝のように輝く過去の戯曲たちがいるのだから、これをあえて再び磨いてみる必要がある。その上、こういった研磨を通して、新しい発想が生まれることの方が多い。

 まずは自分で書く前に、他者の作品をやってみることが重要だ。他者の土台を借りるものの、自分の個性は全く消えない。

 

 そういえば、日本では、オーソドックスな知識人が少なくなってしまったが、こういったことと関係があるのだろうか?

お受験、中学受験...

  受験とはほど遠い世界にいる私は、今でも「受験」という概念についてあれこれ言いたくなってしまう。

 

小学校受験である“お受験”なんて完全に親のエゴでしかないし、小学校から何をさせたいのかよく理解できない。

 

受験問題を載せた電車広告は、もう定番のものになったが、これにもある種のわだかまりを感じる。「幸せとは何か」など抽象的なお題に対して100字で書けとか、条件を読んでとか、何をさせたいのかさっぱり分からない。

 

あんなに受験勉強を強いる空間を作り上げている学校が独創性や幸福を掲げるとは皮肉な話である。

 

 

ゆとり世代についての皮肉な誤解

ゆとり教育を受けた世代が社会に出て、失態をおかすと「これだからゆとりは」なんてことが言われていたが、これも少し流行遅れになりつつあり、近頃は「最近の若い奴は自信過剰だ」とかそういうものが多いようだ。

ところで、ゆとり教育を決めたのは一体どんな主体なのか、支持したのは誰なのか、こういったことは誰もちゃんと調べていない。

1987年、バブル期真っ盛り、第2次中曽根内閣、臨時教育審議会、第4次答申で“個性尊重”、“生涯学習”、“変化への対応”なんていうことがあったのだった。

あれ、決めたのって...